caminote

caminoのnoteでcaminote(カミノート)。日々の思いをつらつらと。

人間とは……

前回書ききれなかったけものフレンズのもう1つの魅力。それは

「ヒトとはどのような動物か」

を徹底して描いていること。

1話からそれはさりげなく描かれ(サーバルに比べ体力の回復が早く、汗をかく=持久力)、7話で顕著になる(図書館を管理するフレンズの「コノハ博士」がヒトという動物の特徴を語るシーンがある)。

そもそも主人公の(おそらく人間である)「かばん」が、自分が何の動物かを知るために図書館に向かう、というのが前半のストーリーの大きな目的である。

よって「ヒトとは何か」という大きな大きな哲学的命題が常に意識されるのは必然であっただろう。

 

caminoは「ヒトとは何か?」という問いかけについて考えることが好きです。本能的な好奇心として、その問いは常に意識/無意識の根底に流れていました。

学問的な方面からも、そうでない方向からも、常にそれを求め続けてきたような気がします。

そんなcaminoけものフレンズに惹かれるのも、「ヒトとは何か?」という問いかけに対する考えを深めてくれるからなのだと思います。

 

 

 

※以下、『幼年期の終わり』『天元突破グレンラガン』『XenobladeX』の重大なネタバレがあります。そのことをよく認識して、その続きを読んでください。

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それにしても、古今東西ありとあらゆる人が「ヒトとは何か?」という問いについて考えてきていると思います。そしてその問いは「絶対的な答えが1つある」というよりは、「自分にとって一番しっくりくる『解釈』を先人の考察を手掛かりに、長い時間をかけて醸成する」という類のものなのだと思います。

caminoにとって「しっくりくる」解釈の1つは、「意志の有無」です。

 

 詳細はうろ覚えですが、『幼年期の終わり』ではオーバーロードと呼ばれる種族は高い知能や技術を持ちながらも、感情を持たないが故に「進化の袋小路」へ追い込まれます。そしてホモ・サピエンスのように更なる進化の可能性を秘めている「幼い」生命体の進化を促すためだけに存在し続けることとなります。

時代は飛び、『天元突破グレンラガン』。中盤で、螺旋王に造られた生命である「獣人」が人間には到底叶いっこないことが明かされるシーンがあります。人間と獣人を隔てるものは何か。それは「螺旋力」。ドリルのようにただひたすら先に進まずにはいられないという衝動。たとえその先に滅びの運命が待ち受けようとも、それに怯えて立ち止まってなどいられない。そんな本能の力。

そしてまた少しとび『XenobladeX』。かつてサマールの民と呼ばれる種は自らの下僕として人工生命を造った。ただし、反逆を恐れたサマールの民は人工生命に自らの遺伝情報で滅ぶプログラムを仕組んだ。時は流れ作中の時代。サマールの民の末裔である人間は逆に「グロウス」となったかつての人工生命に追われる立場になってしまった。それでもなお人類の遺伝子が残る限り「グロウス」は滅亡の可能性があるため何としてでも人類を滅ぼさなければならない。

そんな事実が終盤になって明らかになる。最終的にグロウスと人類の戦いはうやむやになったまま終わるが、さらに衝撃的な事実が。作中ではずっと機械の体で動いていた人間たち。その記憶や意識はデータ化され、遠隔操作でその機械の体を動かしていた……はずだった。『XenobladeX』では最後の最後で、データ化された記憶を保存していたはずのコンピューターがとっくの昔に壊れていることが明らかになり、そのまま物語の幕が降りる。故に、機械の体だけで精神活動がなされていることに対する説明は一切ナシ。

疑問に思ったファンたちは様々な考察を繰り広げるのだが、その中で1つしっくりきたのが上述の「意志の力」。要するに、機械の体に魂が宿ったのだと。それを可能にしたのは、生きようとする意志の力なのだと。

先述のグロウスは知的レベルや姿形などそこまで大きくは違わない(やや獣人っぽい姿ではあるが)。ここから先は完全な妄想になるが、人工生命である「グロウス」にはおそらく「意志の力」はなく、人間のように機械の体になってもそこに魂を宿すことはできないであろう。どこまで姿形や知性をヒトに近づけようとも、それは模倣に過ぎず決してヒトの領域に届くことはない。魂を、意志の力を宿すことはないのだと。

(書きながら、ふとグロウスは人工知能などの機械のメタファーなのではないかという気がしてきた。)

兎にも角にも、グロウスという存在を出し対称的に対峙させることでヒトという存在を描く、これが『XenobladeX』の根底に流れる哲学なのではないか。

 

、、、というのは深読み、というかほとんど妄想に端を発する戯論の類なのだが、『XenobladeX』で描かれていたそれらの要素はその妄想、もとい「ヒトとは何か?」という考察のきっかけ、素材となったのは確かだ。

 

長くなりましたが、今回の記事で伝えたかったことは、

(おそらく)作者の意図からは大きく道を踏み外しひたすらに「ヒトとは何か?」という問いへの考えを深める、という物語の楽しみ方もしていますよ、

ということだったのだと思います。

 

【追記】

今回言及した三作品については、記憶が曖昧なため作中の描写と食い違う書き方をしてしまった箇所もあるかもしれません。もしそのような矛盾を見つけたら、ご一報くださると助かります。