「K大の国語25ヶ年」をふと読んでみました。一応名前は伏せる
caminoは理系ですが、大学受験において国語と英語の問題が大好きでした。
ひとえに、言語を問わず文章の読み書きが好きなのです。caminoteを書き続けているのもそれ故です。
そして、これは主観ですが、K大の国語の問題はとりわけ文章としての質が高く、深い読解力が試されているような気がします。
何しろその出題形式が潔くシンプルで、英語は英語→日本語と日本語→英語の訳のみで、国語も漢字の問題が数題に加え他は全て自由記述です。マス目すらありません。選択肢とか抜き書きとかいう中途半端な出題形式ではなく、先述の「25ヶ年」から抜粋すると『文章の中の適当な箇所を拾ってまとめればいいというような要領の良さを、K大の問題は求めていない』。そんな感じのかっちょいい問題です。
出題形式がいいのもそうですが、先ほども言いましたがK大の国語は純粋に文章としての質が高いです。大学受験が終わってしばらく経ちますが、他の科目の参考書は既に屋根裏部屋の奥底に封印していますが、この「K大の国語25ヶ年」だけはどうにも手放せなくて、自室の取り出しやすい所にずっと置いていました。
大学に入学してからは忙しくこの本を省みる暇もありませんでしたが、どうも心の奥底に引っかかっており、ちょくちょくこの本を出しては(いや、でも今はやらなきゃいけない課題があるし……)と仕舞ってしまっていました。
ところでcaminoは、時々抽象的な思考が暴走してしまうことがあります。
大抵は現実世界での不都合なことや失敗したことなどに端を発するのですが、そこから発展して例えば「善とは何か?悪とは何か?人はどのようにしてその基準を獲得するのか?」というような禅問答のような思考が始まり、しばしば寝食を忘れて思考に没頭してしまうことがあるのです。
このような思考はかなりエネルギーを消耗するため、脳には負荷がかかりおまけに睡眠時間は削れ酷い時は食事を忘れて突如空腹に襲われたりと結構散々な目に遭わされます。その上この思考は突然降って湧いてきやがるので、中々自分では制御することはできません。おまけにその思考も堂々巡りで、ほとんどの場合明確な結論は出ずただただ疲労感を残すばかりです。
そんな短所ばかりの抽象的思考ですが、思考をしている最中だけはめちゃくちゃ楽しいです。楽しいというより、心地いいというべきか。ともかく脳がフル回転しているような爽快感があります。
で、なんで突然こんな話をしたのか。
色々すっ飛ばして言いますが、このような「抽象思考」は、もともとK大の国語を解いていた頃の思考の残滓なのではないかと推測しています。思考は言語を介して行われる精神活動であり、その活動はまさに言語能力の鍛錬とも言えるでしょう。
K大の国語は思考力を鍛える上でこの上なく良い教材だったと思います。長い文章の中から特にエッセンスとなる部分を抽出した「問題文」を読み、その解釈を自らの言葉で文章として書き下す。しかもその行為には制限時間があり、高得点を取らなければならないという緊張感もある。それはまさに、高度な思考力を用いるゲームのような感覚だったと思います。
大学に入学してからは、理系であることもあって中々このような良質な「ゲーム」をする機会には恵まれませんでした。レポートなど多くの課題は課されましたが、それらは概ね理系の専門的な内容の理解度を測定するためのもので、少なくともK大の国語で用いていたような思考力とは別種の能力が求められていたと思います。
故に、この言語能力を使ってゲームをしたいという欲求は大学に入ってからは常にくすぶっていました。先ほどの「抽象思考」やこのcaminoteもその欲求の噴出の一形態なのかもしれません。短絡的に「文章を書く」という点だけに着目して文芸サークルに入ろうとしたこともありましたが、物語を組み上げるだけの構成力がなくすぐにやめてしまいました。
このゲーム欲は深層意識のかなり奥底の方に澱のように降り積もっていたものであったため、自分自身でさえK大の国語のようなゲームを求めているのだ、ということに長らく気がつくことができませんでした。
ゲーム欲の正体がK大の国語であることを直感したのは、実は今日発生した「抽象思考」の最中のことでした。それで、帰宅してから冒頭にもあるように「K大の国語25ヶ年」を読み返してみたというわけです。
するとまあ、なんと文章のセンスの良いことか。短文の連続であることもありついつい引き込まれてしまいました。
何がいいって文章の抜粋の仕方、特に出だしの文章がいいのです。
「余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪へなかった。」
「うつくしいと言うことは、どんなことだろう。」
「美に関しては言葉はいつも廻り道である。」(冒頭の文章でありながら傍線が引いてありました。そこに線を引くとは、さすがのセンス!って感じ。ジョジョのセリフの横に傍点が打ってあるような気持ちよさを感じます。)
「人間文化の進歩の過程において発明され創作されたいろいろの作品の中でも『化け物』などは最も優れた傑作と言わなければなるまい。」
「『冬』が訪ねて来た。」
「書籍と申すものは、世の人々の言うように、まことに便利で有難いものではあるが、どうも気味の悪いものでもある。このような告白は畢竟するに、僕自身の精神力の弱さと才能の薄さとの告白になるだけである。」
「若い溌剌とした感受性と疲れを知らない理解力であらゆることを知り、探求し、学び取ることは、まことにあなた方に課せられた、またそれ故にこそ意義ある愉しい征服ではないでしょうか。」
「偉大な思想家の思想といふものは、自分の考へが進むに従つて異なつて現れて来る。」
「我々の知性は何よりもまず植物的性格である。」(これも傍線あり)
「教養というものが持つ魅力の一つに、私たちを自由にしてくれる働きがあると思う。」(これなんて波線ですよ。いいですねぇ。)
「口承で伝えられた物語の世界はなぜ、私を魅了するのだろう。」
「私たちは確かに人間です。私たちは人間として生きています。しかし、『本当に生きているか』と尋ねられると、あるいは、自分で自分に問う場合、『はい』とはっきり答えられるでしょうか。」(実際の問題でも下線部と同じ箇所に傍線が引かれてました。痺れるぅ。)
どうですこの珠玉の言葉たち。もはや詩のような言葉の響きの美しささえ感じさせるものもあります。
(思えば、こういう文章以外でも小説や、あるいは漫画やゲームとかでもcaminoは言葉の響を大切にしていたような節があるように思います。デュエルマスターズのフレーバーテキストとかすごい響きのいい文章がちらほらあったような。あとゼノブレイドのセリフとかもかなり響きのよいものがあったように思います。)
そんなに文章が好きなら文系に進むべきだったのでは、と多くの人は思うかもしれません。実際そうかもしれません。
でも、これらはあくまで自分の本職とは関係ない「娯楽」として見れてるからこそ純粋に楽しめるのではないか、という気もするのです。それに、僕自身文章に書かれているテーマそのものに強い興味があるわけではなく、単純に文章を読む、つまり言語能力や思考能力を使用すること自体を楽しんでいる節があるため、むつかしいテーマについてあれこれ考え自分の意見を出すというのは望んでいないのだと思います(なんと怠惰な)。
だったらこれらの文章の元の本を買えばいいのでは?と思ったみなさん。おっしゃる通りです。というかむしろ何故今までそうしなかったんだcamino。
いや、今までもやろうとはしていました。何ならK大だけじゃなく、中学受験の国語の文章や中高の国語の教材の元の本さえ買おうとしていました(中高の国語教育もそれはまた素晴らしかったのです)。
ただ、他に積んでる本が多すぎたのです。
あまりにもしょーもなく呆気ない理由ですが、本当にこれだけのことなのです。
本を積んでる理由もブックオフに行くと100円コーナーでついつい色々な本を買ってしまいそれらが蓄積するという心底馬鹿げた理由です。
話が大幅に逸れましたね。結局何を言いたかったのかと言うと、愉しい反面デメリットの大きい「抽象思考」を抑えるために、K大の国語で使われているような良質な本を探して読んで思索に耽ることで思考欲求を発散しよう!ブックオフに行っても自制しよう!という決意表明をしたかっただけなのでした。
しかしこれだとあまりにも個人的な話で読者の皆さんに還元するところが少ないですね。もとより自己満足のための記事なので(caminote自体がそうかも)それでもいいのですが、折角なのでこのK大の国語の良さをみなさんにも知って頂けたらいいなと思います。
そのためにはそれこそブックオフとかで中古でも何でもいいので「K大の国語25ヶ年」を買ってみるといいでしょう。最後の方に「出典一覧」があるので、そちらを参照なさるといいかもしれません。
何だか出版社かブックオフの回し者みたいな感じになってしまいましたが、今回はここまでにします。果てしなくヘンテコな記事でしたがここまでお付き合いいただきありがとうございました。
あっちなみにcaminoはK大には落ちてます。まあなんて酷いオチだこと。
【追記】
暴走する抽象思考について、その説明自体があまりにも抽象的でわかりにくいなと思ったのですが、昨日寝てる時にちょっといいイメージを思いついたので書き足します。
釜です。
思考が暴走してる時は、釜を空焚きしてオーバーヒートしてるようなイメージなのです。
一方で普通の思考をしてる時は、釜の中にちゃんと水が入ってて穏やかに加熱されているイメージです。
だから水が足りなくなった時は、本という思考の水を提供してあげないといけないんだなって思いました。
いわば本は思考の源泉となる種。必ずしもその本の内容を精読しているとは限らず、その本に書かれている文章をきっかけに脳内で議論を展開する、caminoは時々そんな本の読み方をする時があります。
今までも読書習慣は絶やさず続けてきたのですが、読んできたのは主に小説でした。そこがいけなかったのかもしれません。小説の素晴らしさや有意義性については述べるまでもありませんが、小説という文章の形態自体が思考の種としての用途には向いていないのかもしれません。うまく言葉にできませんが。
ところで読書と言えば、caminoは一昨年ごろから読んだ本を逐一記録して感想文を書いてたりします。そのノートがそろそろ1冊消費しきるので、新しいノートを買わなきゃなーなんて思ったり。ノートを1冊消費する記念に何らかの形でその情報を整理・公開できたらちょっと面白いかもなってぼんやりと考えてたりします。
【さらなる追記(09.10.17)】
巻末の「出典一覧」から早速探してみてるのですが、まあ見つからない見つからない。調べてみると、どうも単体で書籍化してるのはごく僅かで、大抵は筆者の名を冠した「随筆集」などの中に表題の随筆が含まれている、というパターンがほとんどのようです。
同じ筆者の別の本を読む、とかした方がいいのかな……
あ、でも2007年の出典である「浮上せよと活字は言う」はたまたま近所の図書館にあったので読むことができました。わーい。